333 時代を見る眼 神なき経済とコロナ禍〔3〕コロナ禍でキリスト者が持っている価値と生産性
千葉大学大学院国際学術研究院・教授
石戸 光
『資本論』で資本主義を批判したマルクスは、当時のヨーロッパ社会でユダヤ人として軽蔑され、ユダヤ教徒からは(キリスト教徒に取り入る)裏切り者と非難され、また家では両親の不和に悩んだようです。
そして孤独感、劣等感、人間不信を抱き続け、怒りと復讐の思いで『資本論』を書きました。
その一方で、マルクスは若い頃にかなりの資産を浪費し、そのため後年になって貧困に陥ったようで、資本主義が原因というよりも、自らの放蕩が原因となって貧困のつらさを知ったマルクスには、放蕩息子の帰りを迎えてくれる父(ルカの福音書15章)の愛が必要だったと思われるのです。
億万長者が所有する何十兆円もの資産、またコロナ禍で必須になったマスクやワクチン、食料品、さらには半導体(携帯電話や冷蔵庫など、電気製品に欠かせない部品)は重要な「地上の価値」ですが、聖書には、私たち人間には、マルクスが述べた「労働の剰余価値」とは別の「存在そのものの価値」があり、人間は「非常に良い」ものとして創造されたことが記されています(創世記1章31節)。それとともに、聖書は、人間が「自己中心」となり、その「罪深さ」は自分では解消できないことも指し示しています。
私たち人間は、マルクスが語った「資本の奴隷」というよりも「罪の奴隷」なのです。
しかし、イエス・キリストが人の罪の身代わりに苦悩され、十字架上で「疎外された(見捨てられた)」思いを味わってくださり(マルコの福音書15章)、死んで復活されたことによって、私たち人間の抱える「罪という禍」に打ち勝ってくださいました。
イエス・キリストによる救いが、信じるすべての人に提供される「究極の価値」だということを、聖書は教えてくれています。
主にあって「尊い」存在として、コロナ禍の中で、主を畏れつつ祈り、日々の地道な働きに勤しみたいと思っています。主に仕えるように働くことが、「主にある生産性」を高めることなのだと信じています。
「主よ あなたは私を探り 知っておられます。/あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ/遠くから私の思いを読み取られます。/あなたは私が歩くのも伏すのも見守り/私の道のすべてを知り抜いておられます。」
(詩篇 139篇1~3節)