ギリシア語で読む聖書 第2回 「愛する」ということ

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

新約聖書を原語のギリシア語で読むということは、かなりのエネルギーと努力が必要であることは言うまでもありません。
本来、ヨハネやパウロは、日本語で新約聖書を書いたのではなく、ギリシア語で書いたのですから、その聖書記者の「息遣い」を感じるためには、どうしても彼らの言語そのものに触れる必要があります。私が、今から三十数年前、ギリシア国立アテネ大学で学びたいと思ったのも、ギリシア語という言語の持つ生活感を味わいながら、ギリシア語が使われている生活現場で学ぶためでした。
例えば、新約聖書に何度となく出てくる「愛する(アガポー )」という言葉も、神の愛をもって愛するのが で、人間的な友愛をもって「愛する」のは「フィロー」というふうに、机の上での学びで教条的に理解していたのですが、アテネ大学の廊下にあったコンクリート打ちっぱなしの柱に学生たちの落書きがあって、そこに「クリスティーナ、愛してるよ!」という落書きに、 アガポーが使われていました。「こんな安っぽい〝愛してる〟に アガポーを使うなよ」と独り、心の中で思っていたのですが、現代のギリシア人にそんな区別はないようです。
新約聖書の中で「アガポー 」と「フィロー 」の違いといえば、ヨハネの福音書21章15節以降に記されている、主イエスと使徒ペテロとの対話を思い出します。主イエスは、主を三度、否定したペテロに対して、三度「わたしを愛していますか」と尋ねておられますが、ペテロも、自分が主を愛していることを三度、披瀝しています。
ここで主イエスは、三度のうち最初の二度は「私を愛するか」を使っておられるのに対して、ペテロは、二度とも「私はあなたを愛しています」の語を用いて返答しています。(このことは、新改訳2017では親切に注で指摘されています。)明らかに福音書記者ヨハネは、この二つの言葉を違わすことによって、何かを言おうとしているように見えます。

しかし、この二つの言葉の違いに関しては、初期の教父たちも積極的には取り上げていないようです。実際、この二つの言葉は、新約聖書の中でも、かなり同じような意味で使われています。
例えば、ヨハネの福音書16章27節 「父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたが私を愛し……」という部分の「愛する」は、二か所ともではなくてが用いられています。
また、古典期においても、この二つの言葉は、かなり相互に用いられていたようです。
例えば、サムエル記第二13章4節では、ダビデの子アムノンが、妹のタマルを、身をやつすほど深く恋していたことが書かれています。「私は、兄弟アブサロムの妹タマルを愛している」というこの「愛している」は、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書(LXX)では

となっていて、 が使われています。つい「ここはだろう」と思ってしまいますね。
このように、 との間には、大きな意味の違いはないようにも思われますが、ヨハネの福音書21章の主イエスと使徒ペテロとの対話では、ヨハネは言葉を違わせることによって、やはり、何かその違いを言おうとしているのではないかと考えてしまいます。実際には、主イエスはペテロに対してアラム語で話されたと思われますが、ヨハネは、あえて二つのギリシア語の言葉を違わすことによって、という言葉にもっと高尚な意味を込めようとしていたような意思が感ぜられます。
新約聖書の中に、主イエス・キリストが父なる神を「愛している」という言及が一か所だけあります。それがヨハネの福音書14章31節です。ここには主イエスが父を愛しておられることが明確に記されています。「それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです……」とあります。そして、ここではが使われているのです。