家族の危機が祝福に変わる 父の苦しみを知ったとき

山中 知義
単立・上田オンヌリキリスト教会 担任伝道師

 気が付くと震える私の手に、血の付いたナイフが握られていた。自分の額からも血が流れているのを感じた。部屋の床には、錆色に変わった血痕が残っている。それはたった今、私と父が格闘した末に、父が残していったものであった。私はついにその日「切れてしまった」のだ。

 いつ頃からか、私の中に復讐心が芽生え始めた。恐らくそれは、母が自殺を図った頃からだろう。父の横暴ぶりに加えて浮気が発覚したことがきっかけだった。私の怒りは、思春期を迎えてピークに達した。私は父を殺して自分も死のうと思った。そしてその日、私は遂に父に刃物を向けたのだ。

 そんな真っ暗闇な我が家に、ある日、神様は御使いを送って下さった。ある米国人宣教師との出会いである。そして私は16歳の春、イエス・キリストを救い主として信じクリスチャンとなった。そして間もなく、その宣教師の世話でアメリカ留学することになった。留学当初、私はあの悪夢のような家庭から抜け出せたことが嬉しくてならなかった。そして異文化にも慣れ、心に余裕ができると、聖書の言葉も深い響きを持って私の心に届くようになった。

 しかしある日、私は憤って聖書をバタンと閉じた。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14,15)。私の心は刺された。それから眠れぬ夜を過ごした。キリストを愛し始めた私と、父を赦したくない私が葛藤し始めたのだ。

 私は未解決な問題を抱いたまま、献身し、聖書大学に進学した。そして四年生の一学期、「聖書カウンセリング」のクラスの中で、「あなたの家系を徹底的にリサーチせよ」という課題が出された。私は日本の親族からできる限りの情報を集めた。すると驚くべきことが発覚した。何と大正時代に我が家で殺人事件が起きていたのである。私の祖母は、その事件の当事者であった。

 生まれて間もなく養子に出され、思春期に義母が毒殺され、結婚生活は早々に破綻し、好都合だというだけで好きでもない男と再婚させられ、三人の子の継母にさせられた祖母。しかし祖母の悲しい人生にもついに春がやって来た。息子が生まれたのだ。それが私の父である。「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」(ヨハネ8:6)。私はこのように信じている。イエス様はこの時、この女性の知られざる過去を全部見通したのだと。彼女がこれまでの人生を通してどのようなトラウマ体験を通ってきたか、またその心の傷の深さがどれほどのものであるか瞬時に悟られたのだと。そして止めたいけど、止められない、変わりたいけど、変われないという罪人の弱さを、即座に断罪されなかったイエス様にとって、「罪人の心の歴史」とは、どうでもよいことではなかったのだと。「何が彼女をそのような自虐的な生活に追いやったのか」イエス様には見えたのだ。

 そして声にしてしまえば、あまりにもその傷口にしみてしまう、だから小さな文字にして愛の言葉を書き送ったのではないだろうか。

 「何が父と祖母をそのような人格へと押しやったのか」。それが見えてくると、私は二人をイエス様の視点から見るようになった。そして私の中のイエス様が、弱い愛せない私を陵駕してゆくのを感じた。以前は二人を「邪悪な加害者」としか見ることができなかった。しかし今はすべての人同様のアダムの末裔、「罪の運命の被害者」と見ることができるようになったのだ。

 その後、私は八年ぶりに父と再会した。私は思い切って父を食事に誘った。父は思いがけず良くしゃべった。私はひたすら聞いた。帰り際、手渡したプレゼントのネクタイに、父は沈黙し、ポツリと言った。「俺の趣味がよくわかったな」。確執の氷は確かに解け始めた。あれから五年、我が家は和解の季節を迎えている。

 私はこの問題を通し、イエス様とは、私たちがいかにすばらしく問題を解決するかよりも、いかに暗闇の最中でもイエス様に向かって前進するかということにご興味をお持ちなのだと知った。ここにこそイエス様を主人公とした「神物語」が生まれるからである。

 今、同じ苦しみにある方々に申し上げたい。希望を持って欲しいと。太陽は東から昇る。すべてが益とされる日は、必ず主の方向から昇ってくる。そしてその日、主の光は、どんな憎しみの氷をも溶かすのだと。