連載 京都のすみっこの小さなキリスト教書店にて 第11回 「小さな人たち」からのメッセージ
CLCからしだね書店店長 坂岡恵
略歴
社会福祉法人ミッションからしだね、就労継続支援A・B型事業所からしだねワークス施設長。精神保健福祉士。社会福祉士。介護福祉士。2021年より、CLCからしだね書店店長。
私事ですが、この夏、娘に女の子が生まれました。初孫です。孫はかわいいものだと言いますが、なるほど、それはよくわかりました。
ただ、「かわいい」という感情が「孫だからなのか?」というと、確かにそういうこともあるのだろうとは思いますが、彼女の小さな体からあふれ出す「生きたい」という強い意志は、孫という域をはるかに超えて、私の中に眠る「かわいい」という感情をぐいぐい引っ張り出すのでした。
彼女は大人の都合などおかまいなしに、容赦のない要求を突きつけてきます。それに応えて彼女を抱き、彼女の呼吸に合わせてゆるゆるとその小さな体を揺すっていると、あかちゃんが弱く小さく、やわらかく、まあるく創られていること、その声もしぐさもなんとも愛らしく創られていること、これらはみな、まったく無力な「小さな人」に備わった神さまの賜物であり、生きていくための術なんだという確信がわいてきます。
小さな彼女は「あたしをかわいがってください」「あたしをまもってください」「あたしのおせわをしてください」と、全身を使って要求してきます。抱っこした腕に密着する彼女の頭と背中は、やわらかくしなやかで、温かい生き物の熱を帯びています。生後一か月にして、泣き方のバリエーションを身に着け、のどの奥を鳴らすように甘えた声を出しては大人を呼びつけ、抱っこをせがみます。泣き声の調子と音量も、何段階かに切り替えながら使い分けているようです。おっぱいがほしい、おむつを替えてほしいという生理的な要求だけでなく、他者とのふれあいを求め、コミュニケーションを取ろうとするのです。
だからあかちゃんの泣く声は、言葉であり、会話なんだと思えてしかたがありません。大人は、あかちゃんの泣き声に応えて「そうか、そうか」「わかったよ」「だいじょうぶだよ」「おなかがすいたの?」などと話しかけてしまいます。
時に、彼女は哲学者のような顔をすることもあります。彼女の目は、私の目をじっと見据えて離しません。「わたしは、小さな人たちの代表として、あなたに対面しています」と訴えてきます。彼女の背後に、世界中の「小さな人たち」の気配を感じます。小さな人たちに、神様が与えてくださった侵しがたい権利を、その代表者として力強く主張しているように見えます。
おいしい食事を与えてもらう権利、からだを洗ってもらう権利、清潔な衣服を着せてもらう権利、安心して眠る権利、楽しく遊ぶ権利、成長するのを助けてもらう権利、安全に守られる権利、めいっぱい愛される権利……。
「わたしたち小さな人たちの権利を、だれがまもってくれますか? あなたですか?」
と、大きな人たちの代表としての私は、彼女から鋭く問われます。
その厳しい問いかけにおろおろしているとき、新聞で、双子を授かったお母さんが生後三か月の女の子を、ふとんの上に落として死なせてしまうという事件があったことを知りました。ミルクをなかなか飲まずに眠ってしまったわが子に、「飲んでよ」と呼びかけたところ、夫に「うるさい」と言われた―。そして、衝動的にあかちゃんを落としてしまった―。あかちゃんは「びっくりしたような表情をして」それから大声をあげて泣いたのだそうです。
「びっくりしたような表情」という言葉が、孫のそれと重なりながら、私の胸にキリのように突き刺さりました。優しく庇護してくれていたお母さんの手からいきなり落ちて、その落とされた衝撃を全身に受けて、何が起きたのかもわからず、ただただ「びっくりしたような表情をして」、それから三か月の女の子は、最後の声を振り絞って、大声をあげて泣いたのです。
「わたしたち小さな人たちの権利を、だれがまもってくれますか? あなたですか?」
と、私はまたしても鋭く問われます。
「もしも私がこの子を虐待したら、この子を連れてすぐに逃げて」と、娘は自分の夫に言ってあるのだそうです。「その時は、お母さん、この子のこと、よろしく」と娘に言われて、私は「わかった。まかせて」と、応えました。「でもその時は、まずは誰よりもあなたがケアされないといけない」とつけ加え、わが子を落としてしまったお母さんのことを思って、私は少し泣きました。
書店と関係のない話ですみません。
でも、どうしても書かずにはいられなかった、「小さな人たち」からのメッセージです。