連載 グレーの中を泳ぐ 第6回 やはりの(?!)献身

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

結婚後、県内で救世軍の教会は長野市にしかなく、遠いので、普段は近くの別の教会に通っていました。夫は私の送迎をするうちに、私が大切にしている教会や神とはどんなものかと興味がわいてきたようで、水曜日には仕事の帰りに祈祷会に行くようになり、牧師の勧めで聖句を暗唱するようにもなりました。
夫が熱心に求道したのには理由がありました。当時受け持っていたクラスが大変荒れていたのです。生徒は暴れ、担任である夫は暴力をふるわれたり、暴言を吐かれたりの毎日。教員の指導力不足だと上司からは叱責もされていました。でも、新婚で、当時子どもを身ごもっていた私を思い、それらの悩みを一人で抱え、神に救いを求めていたのです。
私はというと、まったくひどい妻でした。自分自身が信仰に悩み、距離を置こうとしていたのに、夫には「信仰を持っていなくて祈ることを知らないから失敗するのだ」となじることもありました。夫の学級だけではなく、私も夫も荒れていました。
そんなある日、いつものように重い足取りで朝の通勤路を歩いていた時に、夫はふと気づいたそうです。「学級崩壊は生徒が悪い、生徒のせいで自分はこんなに苦しんでいると思っていたが、そう思う自分がいかに罪深く未熟であったか。キリストはこんな自分のためにも死んでくださった」と。
その日、帰宅した夫は開口一番に「僕は罪人だ」と言いました。私は「そんなこと今ごろ知ったの?」と冷たい返答をしたものの、夫が救い主と出会ったのは本当だと気づき、「これは神聖な時なのだ。救われる人を初めて目の当たりにした。神はいる。夫を救った神は私をも救う神だ」と思いました。そこで、二人で泣きながら感謝の祈りをしたのです。
夫は本当に変わりました。学級崩壊の状況は変わらないものの、毎朝の通勤は祈りと賛美とみことばの時間となりました。私はその姿を見ているうちに、自分の古巣(救世軍)に対して意固地になっていた思いがやわらぎ、帰りたいと願うようになりました。それには長野市に転勤するしかありませんでしたが、そのためには異動願いを出す正当な理由が必要です。そこで夫婦で祈りに祈った結果、「出産を控えた妻の体調が悪いので、都会の大きな病院で医療を受け出産したい」(それは事実でもあったので)としました。
異動願いを出してからも必死で祈りました。教会で生まれ育った自分が、教会に行くために必死に祈っていることが不思議でした。神様はその祈りを聞き届けてくださり、翌年の春、夫は長野市の、しかも教会から一番近い中学校に転勤が決まりました。このことを通して、神様を第一とする生活がいかに祝福の源になるかを知りました。

大事件は、初めての結婚記念日の夜に起きました。「私たちの将来はどうなるかね」と話していたら、夫が突然「この世の終わりが近づいているなら、僕は一人でも多くの人を救いに導きたい」と言い出したのです。「それって献身じゃん!」と飲んでいたお茶にむせて椅子から転げ落ちそうになりました。絶対に献身しなさそうだから結婚したのにと思いつつ、「もし結婚後に献身を促されたら、その時は従います」と神様に約束したことを思い出しました。
実は、私は牧師の働きの何に一番抵抗があったかというと「葬儀」でした。「死」や「葬儀」を異常に怖がる子どもでした。教会に住んでいるとある日突然、葬儀のためにご遺体が来て、母はご遺体のそばで寝たり触れたりしていました。私はそれを恐怖に感じていました。牧師になればそういう仕事を避けられません。
また両親は、自分の召命・教会・家族という優先順位を頑なに守っていましたが、私にはそれはできないし、したくありませんでした。泣きながら神に祈りました。夫とも話し合い、夫が「葬儀は僕がするからいいよ」と言ったのを鵜呑みにした私は覚悟を決めて、夫婦で神学校へと進みました。
それから二十数年後の二〇二二年、私は日本人の死生観・葬儀に関心を持ち、臨床宗教師教養講座でグリーフケアを学んでいたのですから不思議なものです。悲嘆の場所から逃げ出さず、そこにいさせていただくことを志すようになるとは考えもしませんでした。このことも、神様は二十年も前から私に一つの使命として与えておられたのだと思いました。あの時、この時の出来事を振り返ると、点と点に見える出来事が神様の線でつながっているということを感じています。