連載 グレーの中を泳ぐ 第7回 私と夫の子育て
髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。
死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた
この人と結婚すれば献身することはないだろうという私の思惑ははずれ、結婚後まもなく牧師になった私たち夫婦には、十六年間で四人の子どもたちが与えられました。私は、つねに神と教会最優先だった両親とは違う、「神、家族、教会」という優先順位をもって生きていこうと思っていました。しかし、私にとっての最大の困難は「子どもをどう愛せばいいのか分からない」ということでした。
私も、両親に愛されなかったわけではありません。ただ両親は、私たちを愛し守るための順番を間違っていたのだと思います。また父は、自分の父親が早くに突然亡くなり、他の兄弟とは別格の扱いを受けて育った田舎の家の長男として、家族を支える役割を十五歳の時に負いました。その経験から、私たち子どもには早くから信仰と生活の面で自立をさせたかったようです。
両親は、子どもを甘やかしたら何もできない大人になり、あとで苦労すると思っていました。そんな考えのもと厳しく育てられてきた私は、子どもを愛するとは具体的にどうすることかが分からず、自分は親として欠陥があると悩んでいました。子どもの愛し方と守り方を誰かに具体的に教えてほしい、とずっと思っていました。
一方、夫は子煩悩で子どもの世話を甲斐甲斐しくします。母乳を与えること以外の育児は何でもしました。しかも、母親としての私の尊厳を傷つけずに自分のできることを何でもしてくれるのです。
長男は初めての育児という緊張に加え、重度のアレルギーを持っていたので衣食住のすべてに神経を使いました。長女は生まれたその瞬間から、何か強い個性を持っている子だと感じました。次女も重度のアレルギーを持っていました。
静かなディボーションの時間など夢のまた夢。それができない牧師であることが苦しくもありました。誰にも言われていないのに、ディボーションはする気になればできるはずだ、と自分で自分を責めていました。
ある夏、子どもを連れて買い物に行く時、交差点の向こうに、次女と同じくらいの小さな女の子と母親が信号を待っていました。私たちはただ立って待っていただけですが、あちらに立っている母親は、信号待ちの間に子どもの汗をふき、タオルであおいで、汗で乱れた髪の毛を結び直してあげていました。
私はその光景を見て「どうして自分はあのようにできないのだろう」と愕然としました。涙が込み上げ、同時に、こういうことなんだと感じました。自分が背負ってきたものは相当重くて、子育てにも影響する。それがくやしくてしかたありませんでした。
四人めの子どもが与えられるといいな、と思っていた頃、私は三人の子育てにとても悩んでいました。四人めの育児ならうまくいく、という育児「リセット」のような感覚が私の中にあったのだと思います。子育てだけでなく何かあったら全部「リセット」し、なかったことにすればよい。それはかつて「自分の命くらいどうにでもできる=どうにもならなくなったら死んでしまえばよい」と思った私の本性です。
しかし夫はそんな私を知っていたのか、あとにも先にも一度だけ、静かにこんな一言を言ったのです。
「なかったことにはできないよ」
そのことばは深く私の心に届きました。
なかったことにはできない。難しい家庭で育ったことも、結婚も、献身も、子どもが与えられたことも……。そのことばを言われてからよくよく考えると、感謝なことに夫は、いわゆる普通のサラリーマン家庭に生まれ、普通に愛され守られ育てられてきた背景がある人で、私とは全然違いました。私から見ると、「普通な感じ」で子どもを愛して世話をしていました。私がしたいと思っていた子育ては、実はこんな身近にあったのかもしれない、と思いました。
この出来事のあと、私は、人生のリセットボタンはないことを心に刻み、たとえあっても押さないと決心しました。
今でも育児は悩みと葛藤の毎日です。悩まない日はありません。器用に普通にできてはいないと思います。それでも夫と祈り、話し合いながら、何かにつけ大騒ぎしながら、「神様助けてー」と言いながら、毎日を過ごしています。