連載 グレーの中を泳ぐ 第8回 「霊的同伴」との出会い

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

結婚し、牧師となり、生きづらさはだいぶ解消しつつありました。しかし時折、心の底にある石のようなものがうずく……いや、叫ぶような時がありました。それはきっと僻地の精神科に入院していた頃、保護室でドアをたたいても、大声で助けを求めても、まるで「私」という存在がないかのように扱われ、あってはならない辱めや暴力を看護師から受け、自分の存在を誰も分かってくれない、助けてくれないという恐怖と絶望を味わった傷がうずいたのだと思います。それは、また混沌の世界に行ってしまおうかという誘惑へとつながっていました。
また牧師になってからは、受診歴や治療歴がまるで前科のようにつきまといました。誤診と薬の過剰投与に苦しみましたが、その頃は断薬もできて健康的な生活をしていました。しかし、私が何かをしようとすれば「もっと良くなってから」と何もさせてくれないのに、一方では「精神病だったから何もさせられない」という雰囲気が漂っていたので、そんな周囲に不信感を持ちました。
そのような時に感じるこのうずき、モヤモヤは何だろうか、なぜ私には特性や生い立ちだけでは説明できない霊的不自由さ、霊的生きづらさがあるのだろうかと思うようになった頃に、「霊的同伴」に出合いました。二〇一六年のことです。霊的同伴とは、専門の訓練を受けた霊的同伴者に寄り添ってもらいながら、被同伴者が自分の日々の生活の中にある神のご臨在やみわざに注目し、そこに表される神の愛や招きに気づき、応答することを助けるものです。
この霊的同伴を学び、同伴を受けていくことで神と私との関係が変化し、私自身が変容に与り、両親との関係、教団や教会、他者との関係が変化していくことになりました。それらはある日突然、劇的に起きた出来事というよりも、五~六年かけてゆっくり進んできたことであり、今もまだ変化の途上にあります。
学びの最初はカトリック神父によるものでした。「霊的」という言葉に惹かれ、自分が感じていた霊的不自由と関係があるのではないかと感じたのが始まりです。「霊的」という言葉はあまりにも曖昧で、人によってそれぞれ「霊的」であることの基準や尺度があり、その感覚が同じなら盛り上がり、違うなら時にさばき合い、傷つけ合うことがあると感じていました。私はそれで悩んでいたので、その悩みが解消されることを期待していました。つまり霊的同伴とは、信仰の問題や悩みが解決し、楽になるためのものだと思っていたのです。とんだ勘違いからのスタートでした。
学びを始めて二年後、学びだけでなく自分にも霊的同伴者がほしいと切望するようになった矢先、私はある日突然、膵臓がんの告知を受けました。手術・治療に関する決断をしなければならず、真正面から改めて死生観を問われました。膵臓がんの特性から死が近いと思い込み、実際、入院中に看護師からエンディングノートの作成を手伝うよ、とまで言われました。
私は、今は牧師不足だから神様は私のことも、それなりの年齢までは健康を支え、召命を果たせるようにしてくださるに「違いない」と思っていました。子育ても奉仕もそれなりにやって、死ぬ時は子どもたちや家族に囲まれて死ぬに「違いない」と思っていました。当然両親を先に見送るに「違いない」と思っていましたし、あんなに何度も自死を試みても死ねなかったので、私はちょっとやそっとでは死なないに「違いない」とも思っていました。その「違いない」という根拠のない確信が吹き飛ばされたのです。そして、その瞬間にこの年の予定表に書き込まれていた予定がすべてキャンセルされ、真っ白になりました。
「明日は我が身」と言うし、がんになった人にそう言って励ます人もいますが、ほとんどの人が本当に明日我が身に起こるなどとは思っていないようなことが、自分の身に起きたのです。
病院で告知を受けたのは、長男が高校を卒業してカナダへ行った直後、長女は高校、次女は中学に入学をした週、また末娘が三歳の誕生日を迎えた十日後のことでした。子どもたちが新しいスタートを切ったまさにその時に受けたがんの告知は、あまりにも大きな衝撃でした。ほら、神はこういうことをする、私が幸せになるのをこうやって阻止する、と感じました。
しかし同時に、数年前から学び始めていた霊的同伴は、この時のためにこそ備えられていたものなのだとも直感しました。何かこう、「腹をくくって神と対峙する時がきた」、そんな感じでした。