連載 ひきだしの中の信仰 第8回 流されて沖に出る

イラストと ことば
林 くみこ

グラフィックデザイナー。「よきおとずれ」を運び、互いに祝福し合うために用いてください、という願いをこめて、聖書のメッセージやみことばからイメージしたイラストのポストカードをゆるゆる制作中。東京・奥多摩にあるクリスチャンキャンプ場・奥多摩福音の家スタッフ。

 

今月の聖句
詩編69編33節

 

神とは、人間が作り出した理想の存在だと考えていた。けれど、大人になって訪れたキリスト教会で、聖書の中から「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(ルカ12章25節)というイエスのことばを示されて、自分で生きているのではなく、生かしている方がいると知った。つまり、自分が生きていることこそが、神の存在を証明している。わたしが神を認めるかどうかではなく、神がいるからわたしがいる、と。それならこの神を信じて生きるしかないと考えた。
そんな単純な決断をしたわたしに「信仰とは暗黒への飛び込みである」ということばを教えてくれた先生がいた。信じるとは、ただその教えを理解し得たということだけでなく、決断すること。決断とは、自己の全存在を投げ込むことだという。心躍る生まれたてクリスチャンのわたしは、その決断と覚悟を胸に刻んだつもりになった。
ここ数年、「信頼する」ことについて思い巡らしている。神は全能で、慈しみとあわれみの深い、善いお方である。そう信じて告白し、神を信頼することはできる。けれど、いざ自分が望まないほうへ向かう舟に乗り込めるかと問われると、「神を信頼する」と「神に信頼する」の間に大きな隔たりを感じるのだ。心が破れるたびに揺れ動き、勇ましい決断は無惨に潰えて、神からの「わたしに信頼するか」という静かな問いを重ねながら、深みへと運ばれるのかもしれない。