特集 地理・歴史と聖書と私

大阪女学院中学校・高等学校 宗教主任 宮岡信行

 

昨今の学校は、知識偏重から思考力・判断力を含む多面的な学力を身に着けさせる指導が求められています。思考・判断には何よりも豊富な知識が必要であり、もし知識や技能を欠いたままで思考・判断をするなら、人は机上の空論や独り善がりの偏見にしかたどり着けません。
ところが、私たちが物事をリアルに感じるのは、せいぜい自分の生きた十数年で見聞きする範囲であり、歴史も異世界もフィクションも等しく同じように認識している人さえいます。人は、すぐに役立つ知識や自分が楽しむ快い情報を優先しがちなだけでなく、資料に裏付けられた事実と自分の偏った主観を混同しながら判断する場合もあるでしょう。
したがって、聖書の世界が自分の生きてきた歴史と世界の延長上にあると考えるには、何よりもまず聖書の地理と歴史についての知識が必要です。そのため『地図で学ぶ聖書の歴史』の新たな出版は、「聖書」という科目名で授業をする者として心より嬉しく思います。
「聖書」の授業には「神様は本当にいるの?」と素直に口にする一方で、「アブラハムとかイエス様って本当にいたの?」と素朴な疑問を抱える生徒がいます。私は前者の質問に伝道者としての喜びを感じながら、後者の疑問に答える難しさを覚えています。
たとえば「アブラムは父のテラに連れられてカルデアの地ウルを出発し、カナンの地に向かった」という族長物語を説明する時、徒歩で本州を縦断するような過酷な移動を強いられる彼らの困難さを、今でも変わらない距離や気候という地理的な条件、また発掘による考古学的な出土品などの資料を使って伝えます。その上で、ユーフラテス川沿いの肥沃な土地を離れてカナンに赴くという彼らの判断の不自然さに気づき、そのような苦渋の決断を「主の呼びかけ」として受け取ったアブラハムの信仰に想いを馳せる。そのような授業展開のために、具体的な歴史資料と地理的知識はとても役立ちます。
あるいは「イエスの母マリアと夫ヨセフが住民登録のためにナザレからベツレヘムまで旅をして、イエス様はベツレヘム滞在中に生まれました」とイエスの誕生物語を紹介しながら、彼らが歩いた約一二〇キロの道のりを調べさせます。すると、高低差のある荒れ野を歩き続けなければならなかった妊婦のマリアの苦しみに気づき、さらに約二千年前のローマ支配下にあるユダヤ人の住民登録という理不尽さに思い至ります。こうした地理や歴史的な社会構造を理解すると、その次に聖書の人々が受け取った福音がどのような良い知らせなのかを考え始めるのです。
聖書の世界が自分と同じ地平で存在していると地理や歴史という観点から知る時に、多くの人が自分の関心領域を広げられる経験をするでしょう。私たちはこのような経験を通して、見えないものに目を注ぐように招かれています。そして、世界の果てまでを造られた創造主であり、歴史の初めから終わりまで生きて働かれる神、またイエス・キリストの救いへと招かれていることを確信するのです。