362 時代を見る眼 私たちの賛美 コロナ禍を越えて〔2〕 心からの賛美
日本同盟基督教会 多治見中央キリスト教会
山本陽一郎
賛美とは、音楽を伴った祈り。神様によって造られた私たちにとって、神様を賛美することは大きな喜びであり、特権です。
その中には、苦しみもがく中でささげる賛美もあります。事実、聖書の詩篇の中には、神様への嘆きや訴え、問いかけなどを歌った詩がいくつも収められています。それらは生身の人間の真実なことばなのです。ダビデは喜び、また叫び、うめきました。そして、神様はそれを祈りとして受け止めてくださるお方です。感謝にしても苦しみにしても、口先だけではなく真実をもって賛美することが大切です。
コロナ禍になり、教会でそれまで当たり前のように行っていたことが次々とできなくなりました。賛美もその影響を受けました。しかし、以前のようには歌えなくなった時、あらためて問われたのです。私たちは今まで、賛美歌を歌うこと、歌えることに慣れすぎてはいなかっただろうか。賛美されるべきお方の御前で、どれほど救いの恵みに感謝しながら歌っていたか。当たり前のように「賛美」という名の時間を過ごし、歌詞の意味を深く考えることなく惰性的に歌ってはいなかったか。そして、歌っている内容のように、自分は生きようとしていただろうか、と。
コロナ禍は、私たちが礼拝や賛美の本質を考える機会ともなりました。何ひとつ当たり前のことなどありません。主の御前で共に集い、共に歌える恵みを味わい噛みしめながら、心をこめて賛美をささげたいと願います。
高校生の頃のバイブルキャンプを思い出します。当時、私は思いがけず不登校になっていました。いろいろなことがうまくいかない日々。そんななか参加したキャンプには、誰でもエントリーできる賛美集会がありました。私はそこで神様への疑問や胸の内の苦しみを歌詞にした自作の曲を歌いました。「神様、いるなら答えてくれ」と。今振り返ると、よくあんな歌をあの場で歌った(歌ってしまった)なと思うような内容でした。でも、そこに来ておられたゴスペルシンガーの小坂忠先生はこうコメントしてくださったのです。
「彼の歌は祈りだ。彼は神様に向かってまっすぐに歌った。神様はこの正直な祈りの歌を必ず受け止めて、答えてくださる。僕は、彼は将来牧師になると思うよ」
まさか自分が、と思いました。しかし、あの苦しみの中からの歌を、あの心の祈りを、神様は受け止めてくださったのでした。主は私たちの賛美を聴いておられます。