365 時代を見る眼 阪神・淡路大震災から30年 〔2〕 “意味づけ”は必要か

基督兄弟団西宮教会
ニューコミュニティ 牧師
小平 牧生

 

2016年に神戸で第6回日本伝道会議(JCE6)が行われましたが、ちょうどその前年が阪神・淡路大震災から20年の記念の年でした。そこで、JCE6プログラム局では開催地プロジェクトとして「阪神・淡路大震災をふりかえる」という企画を提案しました。これまでの歩みを振り返り、教会の歩みと働きを検証する時となることを期待したのです。
しかし結果的に、神戸の方々は必ずしも積極的な反応を表されることはなかったように思います。あくまでも私の個人的な感想ですが、そこには「何らかの意味のある答えを出そうとするあり方」への抵抗のようなものを感じました。そして、25年を迎えた時も、また30年を迎えた今年も、地元の教会は、むしろ黙ってこの時を過ごしているのです。

私もそうですが、神戸や阪神の被災地の教会と牧師は、「大震災を経験してどう変わりましたか」とか「支援活動を宣教にどのように活かすことができましたか」という質問を、これまでにいやというほど受けてきました。おそらく、その問いに疲れていると思います。
たしかに、私たちはピンチの状況の中からチャンスを探し出したいし、マイナスのできごとをプラスに変えたいし、その試練は決して無意味ではなかったと、高らかに言いたいのです。そして事実、私たちはそのように願って取り組んできたことにはまちがいありませんし、またそこにこだわるようにして意味を見出そうとしている教会もあるかもしれません。しかしそれでも、それだけでは、教会は本当に大切なことを背後に追いやってしまっているのではないかと思えるのです。

どんなことにも無意味なことはないと思います。そしてそこに意味があるなら、私たちの苦しみは報われますし、また前に向かっていく力が与えられます。しかし、そのことを私たちが自分のために証明しようとする必要はないのです。
神は私たちの苦しみのただ中におられ、苦しみは私たちがキリストのからだである教会として共有するものであり、私たちの信仰と人生を豊かにしていくものであると思います。