366 時代を見る眼 阪神・淡路大震災から30年 〔3〕 ともにありつづける共同体

基督兄弟団西宮教会
ニューコミュニティ 牧師
小平 牧生

 

私たちは様々な苦しみを経験します。そして苦しみは私たちを揺さぶり、キリストに従う新しい生き方へと導きます。
私たちはこの30年の歩みをとおして、神が私たちの苦しみのただ中に働いておられることを知り、そここそが神の臨在と働きを見ることのできる場所であることを学び、苦しみは共同体としてともに担うものであることを経験してきました。

あの阪神・淡路大震災の現場において、最初は「支援する」ことを意識しました。それは、私たちがなすべきことであり、キリスト者の社会的な責任であるからです。しかし、やがて私たちは自らが「支える者」であるというよりも、「支えられている者」であることに気がつき、そして互いに支え合う者としての意識を持つようになっていきました。救助や救援の段階では外からの支援が重要であることは当然ですが、復旧や復興の段階になると、そこに生きる者たちの日常的な相互支援へと進んでいきます。支援する立場にあることや、それに対する強すぎる意識が、あるべき姿や関係をさまたげることも経験しました。
そのような中で、教会は苦しみの中にある人を支援するというよりも、むしろ苦しみの真ん中にあって自らも苦しむ者としてともに生き続ける姿を学びました。私たち自身の中に「支援する者」であることと「支援される者」であることが統合されていくのです。

大きな災害がもたらす苦難は、被災者に強い一体感を与えます。「絆」とか「つながる」という言葉が繰り返されるように、苦しみの共有は私たちの励ましとなり力となります。しかし、その交わりが復興のプロセスを歩み始める時には新たな課題に直面します。たとえば、苦しみの中にある人がその痛みを共有する日々を経て、そこから新たな復興の段階へと進もうとする時に、それまでの交わりから突然離れていく姿を見ます。同じ病室でともに闘った仲間が念願がかなって退院していく時に、そこに残される人と、新たに歩み始めようとする人が生まれていくのと同じです。
教会は、ただ支援をする者たちではありません。ともに歩み続ける者たちの共同体です。生涯を通してともに歩んでいく交わりこそ、教会に与えられた性質だと思います。