連載 神への賛美 第3回 「主の祈り」に見る賛美の恵み(3)
向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシック仕込みの幅広い音域を持ち、クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。
「みこころが天になるように 地にもなりますように」
イエス様が教えてくださった、麗しい「主の祈り」。
シリーズ第三回目は、この「みこころがなりますように」という箇所に目を留めてみたいと思います。
天のお父様のみこころ。それはきっとものすごく素晴らしいに違いありません! その限りない大きさ、聖さ、深い愛、そして義。人には計り知ることは到底できないものです。
けれど、お父様は良いお方。信頼して、ゆだね、それがなりますようにと祈れることは、幸いです。
イエス様は、お父様のみこころを行う方でした。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく」(ヨハネ6・38)、「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」(同4・34)と言われました。
「わたしと父とは一つ」ともおっしゃっています(同10・30)。
十字架にかけられる前夜には、ゲツセマネの園でこう祈られました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14・36、新改訳第三版)
私たちも自分の望むところをお父様に申し上げていいのです。ただ、それ以上のこと、お父様のみこころが最上であることに信頼し、ゆだねる。それがお父様と一つの姿であることを、イエス様は私たちに見せてくださいました。
聖書の中には、「主と一つの心」だったと書かれている人物がほかにもいます。イスラエル王国の王となったダビデです。
何よりダビデは、神への賛美者でした。新しい賛美を書き、今で言うシンガーソングライター、ギターやピアノで弾き語りをするような若者でした。王様になると、さらにクワイヤーや、バンド、オーケストラを組織し、音楽史上燦然と輝く賛美プロデューサーのようだったと思います。彼からは神様への愛があふれてやみませんでした。彼の賛美は神様への愛そのものだったのです。
しかしダビデの人生を見る時、褒められない点もありました。人の妻を奪って殺人を犯したり、神様をさしおく人口調査を行ったり。はて? これで「主と一つの心」とは? でもダビデはすぐ神様へ立ち返り、悔い改めたのです。
私たちも、神様のみこころを求めておきながら、どうしようもない罪に七転八倒します。 しかし涙をもって主の御前に座る時、どうでしょう。自分が砕かれ、むしろ主に近くされていく恵みを通ることになるのです。その深い領域は、かえって甘美にすら感じられるほどです。
ダビデの書いた詩篇22篇には、まるで十字架の受難の中にいるイエス様ご自身の告白のような記述があります。
「わが神 わが神
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(1節)
まさしく十字架上の叫び。ダビデはイエス様が生まれる約千年も前に、この叫びを歌にしていたのです。
その詩篇はこう続きます。
「けれども あなたは聖なる方
御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。」(同3節)
苦しみの中にいる筈なのに、神様を賛美しているのです。
「主を求める人々が主を賛美しますように
―あなたがたの心がいつまでも生きるように―
地の果てのすべての者が 思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの前にひれ伏しますように。」(同26〜27節)
私たちが永遠に生き、帰ってきて父を礼拝するようになる。まさしく、イエス様が自分を捨ててでも成し遂げたいと思われた父のみこころ。主と一つの心を持っていたゆえでしょう、ダビデはイエス様の心そのものをキャッチし、新しい歌として賛美したのです。
私たちも、この「主の祈り」を唱えながら、みこころを生きる者となりたいものです。もはや私が生きているのではなく、「主」が生きておられると言えるほどに。自分をはるかに超える方の望みがなることは、私の、そしてこの世界の希望なのです。
―主のみこころは、この地を救う愛です―