連載 グレーの中を泳ぐ 最終回 旅は続く

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

霊的同伴は、信仰生活における魔法の道具ではないし、完璧で最強の自分になるためのツールでもありません。私自身、同伴の学びを始めたころは、これがキリスト者として最高峰のレベルまで到達する方法だと勘違いしていました。学びの時間は、それまでの自分の人生を覆し、誰もがあっと驚くきよく、美しい自分になるための秘密の道具を手に入れた感覚でわくわくし、興奮を覚えました。
しかし、その興奮も冷めやらぬまま帰宅すると、そこにはいつもと変わらない現実の生活があり、玄関のドアを開けた瞬間に目に入る靴の散乱、「あれして、これして」という子どもたちの要求の声に、恵みが吹っ飛んでいくように感じます。最初はその差にいらいらして、子どもたちに苛立ちをぶつけていました。しかしある日、子どもに、「ママは勉強に行くと性格が悪くなって帰ってくる。勉強に行くのは、心が良くなるためなんじゃないの?」と言われ、はっとしました。
そのことを同伴者に話している中で、自分が霊的同伴について勘違いし、高慢な考えを持っていたことに気づきました。真の霊的修練の場は、厄介で面倒で時間がかかり、逃げようのない身近な関係(家族との生活や任命)のあるところだということに気づいたのです。
また、「はっきりわかるように神の似姿に私を変えてほしい。パッとすぐにわかるようなかたちで励ましや慰めが与えられ、霊的同伴の『効果』をすぐに感じたい」と願っていたし、そうなるためのものだと思っていたのですが、それも間違っていました。
いつもいらいらしながら動き回るがさつな私には、時には数年、数十年単位の時間をかけて変えられていく、というのは気の遠くなるような課題で、待てないと思えました。
でも、落ちついてほんの少しでも自分の生活に注意を払ってみると、神はいつでもどこにでも佇んでおられることに気づいたのです。神はあちこちで、私が気づき、神の思いを受け取れるよう働きかけながら、変容へと導いてくださっていました。「ありがとう」の一言でも、心を込めて言うのとそうでないのとでは、そこにおられる神のお姿は違って見えます。
家のどこかに置いてあった聖句カードを何気なく見た時に、はっとする神からのメッセージ。育てた花が開花し、じーっと見つめている時に感じる神の美しさや神秘。大好きな紅茶の香りを楽しむ時に感じる神の豊かさ。困難な人を目の前にした時にイエスのまなざしを思い出すように促されること。聞きたくないことばを聞く時に、自分の耳だけでなくイエスの耳でも聞き、どのように感じたかを神に話したり聞いたりすること。雨音のリズムに神の恵みのリズムが重なっているように聞こえること。霊的同伴を受けている最中に、キリストの衣で包まれているような安心を感じたこと。不安や恐れに呑み込まれそうになる時に、そう感じることとそこから何かの行動を起こすのは別のことで、悪の誘いになびかない戦いを一人ぼっちでしなくてすむために霊的同伴者がいること。怒りや嘆き、疑問、不満、どんな感情でも神に言っていいのだし、問いかけていいのだということ。
そのような日常の出来事を通して神に気づきを与えられる経験を重ねるうち、いつの間にかがんになってから五年が経ちました。そして、五年めの検査を無事クリアして「治癒しました」ということばを主治医からいただきました。不思議なことに今の私は、がんになる以前よりずっと健康な状態です。そして心と魂も神のあたたかな光に導かれて、いつのまにか変えていただいたと感じていますし、自分が「変わりたい、変わらなければならない」と思っていたこと自体も神におまかせすることを教えていただきました。
思いがけないことが起こるといつもあたふたしますし、相変わらずドタバタの日常ですが、神と共なる旅路は続きます。
年齢的にはインプットからアウトプットする時期にさしかかり、無駄なものをそぎ落として何が残るかを見ていく作業に入る時期になったと思っています。それは、一時的に寂しさを感じる作業でもあると思います。でも、それを一人で孤独にやらなければいけないわけではありません。霊的な旅路を共に歩んでくれる友がいることに感謝しつつ、旅は続きます。
皆様が霊的な友情関係を持つことのできる人と出会えますように、また誰かにとってそのような霊的友人となるよう導かれますように祈りつつ。