時代を見る目 119 牧師館の子どもたち(1) 牧師館に育って
大山 信子
日本メノナイト教会協議会
白石キリスト教会 牧師夫人
「いい環境ね~」。教会の方にそう言われて、子ども心にびっくりしてしまったことがありました。当時私が住んでいたのは、教会一階の奥の数部屋で、工場に挟まれ、まったく日光の入らない暗く狭い牧師館でした。牧師館にはトイレがなかったので、教会のトイレを使用していましたが、幾つかの暗い部屋を通って行くしかなく、とても怖かったことを覚えています。玄関に鍵を掛けないという教会の方針があったために、ホームレスの方がいつの間にか中で寝ておられ、ドキッとしたことが何度もありました。
後で思えば「いい環境ね」と言われた方は、子どものころから神様の話を聞きながら、祈られて育つ環境のことを言われたのかもしれません。けれども私はとっさに「この人は何を見ているのだろう。私の住んでいる場所を見たことあるのかしら」と思ってしまいました。これは三十年も前の話ですが、いまだにこのような環境の牧師館もあることを聞いています。確かに霊的な環境はとても大切です。しかし、牧師館の実際的な問題がおろそかにされてはいないでしょうか。
たいていの場合、牧師は住む場所を選ぶことができません。というよりは、選ぶ権利をすでにささげていることでしょう。生活のすべてをゆだねて、「地上では旅人であり寄留者である」ことを告白する生活をしていますから、住む場所にケタはずれの高望みをすることもないでしょう。しかし、牧師館の子どもたちは、必ずしも献身しているわけではありません。それなのに献身を強いられるような生活をしている場合があります。
日曜日の午後、教会行事が終わって家路につくクリスチャンホームの人たちを見て羨ましく思ったこともありました。牧師館は教会の器官として昼夜を問わず、教会内外からの要望に応えて働き続けている場所です。来客や電話の特殊性は普通の家庭では考えられないものです。金銭的な援助を求めてくる人、深夜の相談電話。両親は、学校が休みの土日や祝日は教会のことで忙しく、やっと手に入れた団欒のひと時も一本の電話で終わりとなる……。そこで育つ子どもたちは、待つこと、我慢することが多く、いつの間にか犠牲になっていることが多いのです。生まれながらにして、「キリストのための苦しみ」を帯びている、それが牧師館の子どもたちなのです。