かおるの雑記帳 クリスマスに寄せて

クリスマスに寄せて
内山 薫
日本バプテスト宣教団 池田キリスト教会会員

 「教会のような聖い場所に足を踏み入れる資格はないので……」とおっしゃる方に何人かお会いしたことがあります。そんな時「汚れた罪人のためにこそ、イエス様は来て下さったのですから」とお答えしていたものです。ところが私自身、とても教会へは赴けないと感じ、クリスマスを誰にも会わず家で過ごしたことがあります。クリスチャンになって何年も経ってからのことです。真っ暗な部屋の中で讃美歌を聴きながらぼろぼろ泣いていた、本当に悲しく惨めなクリスマスでした。けれども振り返れば、あの日が私の信仰の原点なのかもしれません。

 ある日、御降誕について書かれた本を読みながら、イエス様のお生まれになった家畜小屋について想いを巡らせていました。そのとき、あの家畜小屋こそ教会へも行けず惨めに泣いていた私自身の心の状態ではないか、とハッとしたのです。
――ベツレヘムの夜。真っ暗な家畜小屋。床に敷かれた干し草。その草にまみれた動物の糞。放尿の音。鼻をつく臭い。がさがさ走り回るねずみ。
――それは夜の闇に閉ざされた私自身の心ではないのか。怒りや、憎しみや、妬みが黒々と深く渦巻く場所、自分でも顔をそむけたくなるような、私の中の最も汚い部分。悪臭を放ち、近づこうとする者などなくて当然の部屋。しかし、まさにその臭く汚れた闇の真っただ中にイエス様は来て下さったのでは――? 最も救い難い部分に光を注ぎ、救いをもたらすために。分別ある大人なら顔をしかめ、非難の言葉の一つも浴びせたかもしれない私の心の醜さに、全く気づかない幼子の姿をとって。

 このことに思い至ったとき、それまで言葉でしか分っていなかった「汚れた罪人のためにこそイエス様は来て下さった」ということの意味が、体験として理解できたのでした。それは、自分がどんなに救い難い人間であっても失望することはないという希望のメッセージでした。今、21世紀最初のクリスマスを迎えようとしています。皆様お一人お一人の心にこのメッセージが届きますように。心の闇に神様の光が注がれて、暖かなクリスマスを迎えることができますように。心からお祈りしています。

 さてこの一年間、表紙絵と雑記帳を担当できたことは、私にとっての大きな宝です。読者の皆様、お世話になった編集部の皆様、ありがとうございました。