踊るクリスチャン 第2回 先生ありがとう
清水好子
単立・入間聖書バプテスト教会牧師夫人
気がつくと私は近くの本屋に走っていた。高校一覧を立ち読み、校長兼理事長の名前を確認。「よし、あの先生だ」。
とにかく「ありがとう」と「ごめんなさい」を言いたい。アポイントメントも取らずに、実家を通り過ぎて片道三時間近くかかる母校へと向かった。
「おまえか、名前を聞いてすぐわかったよ。ああ、恨まれてたのも分かっていたよ」と懐かしい声。「もう責めないでくれよ、責めたり責められたりするのは、もうお互いにきついからなー。もう時効だぞ、いいか」。「ごめんなさい。あれは、八つ当たりでした」と私。
私は高校受験に失敗した。在籍した学校を学校とは思えず、「こんなところ、学校じゃない」と言っては、先生を「自分に対する不満」のはけ口とし、卒業してからも、あそこで人生が狂ったのだと、人生の半分以上かけて恨みを持ち続けていた。
ある時、なぜか急に高校の時の日記が読みたくなった。
○月○日「自分をもてあましている私に、高校YMCAの顧問を引き受けるからやってみないかと先生が声をかけてくれた。やりたいと思うことは全面的に受け入れるからがんばれといってくれた」。○月○日「俺は、はけ口になってやってるんだぞ! と言われた」。○月○日「つぶれるんじゃないかと思って心配していたけど、なんとか大丈夫そうだね。祈っているからと言われた」。
読んだら謝りたくなった。謝ったら、何だか心が軽くなった。それどころか不思議なことに恨みが感謝に変わった。そして、新たな人間関係が始まった。
当時も、学校が悪いのではなく、選んだ自分が悪いんだということを本当は知っていた。あの時は、それを一言も言わずにいてくれた先生。「本当は、あの子はいつになったら自分に気づくのか、どこにいても結局は自分自身なのにと思っていたんだよ」と今だから言う。
先生たちは私が立ち直るまで見守ってくれた。本気と本音の先生とのかかわりは、今でも人間関係の土台となっている。