伝道は人格を通して
私はまったくの未信者の家庭で育ち、子どもの頃から祖父に、「人は死んだら神様になる」とか「古い神様ほど偉いんだ」などと教えられてきました。でも小学2年生の頃、数回だけ教会学校に行ったことがあります。その時、教会の先生が「よく来たねぇ」と笑顔で迎えてくれたことを今も覚えています。そんなことから、キリスト教は良いものという印象をもちました。
それっきりになっていましたが、高校生になって、家族に問題があって、自分の人生を考え直すようになりました。そんな中、自分の将来を考えた時、キリスト教か、それに類するものを勉強してみたいと思ったのです。それで三浦綾子さんの『新約聖書入門』を読んで質問の手紙を出したら、「教会に行くように」との返事をもらいました。でもどこに教会があるのかわかりません。ちょうど、三浦さんの本を買った本屋に『明日へのバイブル』(リビングバイブルの普及版)というわかりやすい聖書が並んでいたので、それを求めて読んでみました。はがきがついていたので「教会に行ってみたい」と書いて出したところ、久留米聖書教会という教会の牧師さんが「あなたのはがきを出版社からもらった」と言って訪ねて来られました。私が高校を卒業した春休み、1982年のことです。
その後導かれて、その教会で受洗しました。
自分が福音を語る立場になって、宣教についていろいろ教えられてきたことがあります。原体験も含めてですが、人は説得によって神様を信じることはないし、説得もできないということです。福音は人格を通して伝わるものなので、私は、その人に尋ねられたら福音を伝えるようにしています。ですから、信仰について尋ねられる信頼関係をもつことが大事だと思っています。キリスト教弁証論の勉強はしましたが、弁証論で人が神を信じるということはほとんどありません。信じた後、さらに理解を深めるために必要と思いますが。旧約聖書にも、「子どもたちに尋ねられたら、こう答えなさい」という言い方がよくされていますよね。
私は、福音が自分の家族に伝わって初めて、伝道の「結実」と思っています。家族への伝道は、まさに人格を通してのものですから。クリスチャン1世だけで、次世代に継がれていかなければ、自転車操業の伝道になってしまいます。
影響を受けた人といえば、初めて行った教会の森吉慶牧師でしょうか。先生は、私が行き始めて1年くらいたった時、牧師を辞して中国の宣教に行かれました。中国へは宣教師として入れないので、武漢大学の日本語教師としての入国でした。当時先生は30代半ばで、奥さんと2人の子どもがいて、人生を賭けて行かれたのです。私はまだ「献身」ということばさえ知らない時で、福音を伝えるということが犠牲を伴うものだということ、しかもその犠牲が祝福と考える価値観に驚きました。先生は数年後、中国当局によって、教師でありながらキリスト教の宣教をしたとして強制送還されましたが、リスクを負ってまで、キリストを伝えるその生き方は、私の心に強く残っています。 (談)