私たちはイエスの証人

豊田信行(ニューライフキリスト教会牧師
NPO法人「a cup of water」代表理事)

 私の父、豊田龍彦は古い表現かもしれませんが、「炎の伝道者」との呼称がピッタリの人でした。父は1か月に10名の求道者、1名の決心者を目標に掲げ、あらゆる機会を捉えてイエス・キリストの救いを伝えようとしました。

 ある時、町中で落とし物を捜している人を見かけ、声をかけました。その方は財布をどこかに落とし、たいへん困っておられました。父はその方と辺りを懸命に捜し、幸いにも財布は見つかりました。その日、神は失われたその一人の魂を救いへと導かれたのです。

 救霊の熱い思いは父を山中での「徹夜の祈り」へと押し出しました。1973年8月19日未明、父は山中での徹夜祈祷中に帰らぬ人となりました。まだ33歳の若さでした。

 父の遺体は山頂付近の岸壁上で発見されました。その傍らには聖書と祈りのノートが置かれていました。祈りのノートには求道者の方々の名前がびっしりと書き込まれていたということです。

 父は日本の救霊のために命をささげ尽くしたのです。当時、9歳だった私にとって父の死を「殉教の死」と受け止めることはできませんでした。生前、父は、「信行。神は愛だよ」とよく話してくれましたが、父の突然の死は幼い少年の心から、その父のことばを消し去ってしまいました。神の愛を疑う日々が始まったのです。

 父の死から十数年が経過した頃、日曜礼拝に出席していた私の身にその後の人生を決定づける出来事が起こりました。

 礼拝が終わりに差しかかり、賛美歌を歌っている時でした。「私はあなたに御子イエスを与えた」という声が心に響いてきたのです。その瞬間でした。「ご自分のひとり子を与えてくださる父なる神が、私たち家族から父を奪うはずがない」、そう心から思えたのです。すると、涙がとめどもなくあふれてきました。

 父がいつも語ってくれていた神の愛がわかった瞬間でした。その時、私の心に「神の愛を伝えたい」との願いが起こされたのです。しかし、伝道は父のように命がけで行うものであって、自分のような生ぬるいクリスチャンには絶対無理だとあきらめていました。

 しかし、伝道は私が行うものではなく、私を通して働かれる神のわざだと教えられたのです。イエスが生まれつき目の見えない人を癒やされた時、パリサイ派の人々はその人を呼びつけ、誰が目を開けたのかと尋問しました。その人は、「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(ヨハネ9:25)と証言しました。

 私たちがイエスについて多くを知らなくても、私たちの身に起こった神のわざを証言することが伝道の一歩なのではないでしょうか。私たち一人一人はイエスの証人です。