歴史散歩[1] 「いのちのことば社70年史」より
始まりは、宣教師の文書伝道だった
1950年春、ケネス・マクビーティにとってその後の日本での働きを決定づけるような出来事が起こった。それは、ミッションの総主事であるT. J. バックの日本訪問だった。「その香り立つ精神と主への熱い献身は、年会に集まった80人のTEAM宣教師たちに深い印象を残した」とマクビーティは記している。バックは、当時の混乱した日本で起こっていた多くの戦いと緊急事態に当たって、助けと指針を与えるために日本に来ていた。集まった宣教師のほとんどは、まだ来日して1、2年しかたっていなかった。彼はメッセージの中で、日本のような国にはキリスト教文書が緊急に必要であることを訴えた。
「私が17歳の時でした。コペンハーゲンの町を歩いていると、1枚のトラクトを手渡されました。見るとキリスト教のパンフレットです。私はその場で丸めて捨ててしまいました。ところがその時、トラクトをくれた人が涙を浮かべて私を見ているのに気がついたのです。この私のために涙を流してくれる人がいる。一瞬、驚きに似た熱いものが胸に込み上げてきました。なぜあの人は私のために涙してくれるのだろう…。私は捨ててしまったトラクトを拾いに行きました。今の日本人が最も必要としているのは、私のこの経験ではないでしょうか」(1982年発行「社史」)。 バックはさらに続けて言った。「世界一識字率の高いこの日本で、文書伝道の計画はどうなっていますか」。そして彼は自分の説教を中断し、その場で6名の文書伝道委員を指名したのである。マクビーティの名前もその中にあった。…早速、文書伝道委員会はトラクトの出版などを手掛け始める。ところがしばらくして委員長が飛騨に遣わされることになり、「臨時でもいいから、委員会の責任をもってもらえないか」とマクビーティは頼まれた。この「臨時」がやがて彼の44年にわたる日本での仕事になっていくのである。