予期しない方法で
まさか電話で誰かが救われるとは思っていませんでした。
もう十何年も前のことになります。アメリカから日本宣教に来られたアンドレ・レイノルズ先生に師事し、私はTPWというゴスペル大衆伝道のお手伝いをしていました。先生は常日頃から、伝道には聖書のみことばとお祈りが大切だぞ、と口酸っぱく教えてくださっていました。
ある日、そのミニストリーに参加されていた未信の方から、一本の電話がかかってきたのです。とてもつらいことが重なったのでしょうか、悲しさや憎しみといった思いを赤裸々に吐き出され、私は耳を傾けてうなずくほか何もできなかったのを覚えています。
会話も終わろうかという時、みことばが大切だと教えられていた私は、「では、みことばを読みますね」と聖書を取り出しました。しかし、あろうことかその時、私が読んでしまったのは、一般的には痛みを覚えている方にはお届けしないであろう、厳しさを含んだみことばだったのです。
「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」(マタイ7:3)
さてどうしようかと、その方を気遣いつつ、しかし、私はさらにお聞きしてしまったのです。「あなたの目に梁は入っていますか」。ああ、余計なことを聞いてしまった、と思った私でしたが、その方は怒るどころか、「私の目の中には梁などではなく、家一軒建つほどの材木が入っています」と言って泣き始められて、罪からの救い主であられるイエス様を信じ、クリスチャンとなられたのでした。現在も、主のためにご自分の賜物を用いて活躍しておられます。
まさか電話で誰かが救われるとは思っていませんでした。私の頭の中にある伝道とは、対面で行われる個人伝道や大衆伝道、そして教会の礼拝や集会のことばかりだったのですから。しかし、私たちが予期しない方法を通しても、また、格好良い、理想的な伝道でなくとも、主はみ救いを起こされることを、私はその時学んだのでした。
新型コロナウイルスの影響が広がるにつれ、インターネットを介してでないと人と接することができなくなってきました。伝道の機会を失ったと思う方もいらっしゃるかもしれません。顔を合わせてお伝えすることのすばらしさを考えると、確かにできないことが増えてしまいました。
けれども、できることはある、あの時の経験をもとに、そう思わされています。まさかインターネットを介して誰かが救われるとは…。まさか本をプレゼントしたことで誰かが救われるとは…。そんなふうに、まさか…と思わされる主のすばらしいみ救いは、これからもきっとあると思います。今までのやり方とは少し違うかもしれません。けれども、共に祈り、みことばを届け、すばらしいイエス様をお伝えすることを、これからも続けていけそうだ、何だかそんな気持ちにさせられているのです。