歴史散歩[2] 「いのちのことば社70年史」より

働きの拡充と、加えられる働き人たち

 1950年10月14日、TEAMの文書伝道部門として実行責任者マクビーティのもと、東京・中野区昭和通に「いのちのことば社」が創立された。社名の提案者はアライアンスの宣教師M・フランシスであったという。ピリピ2:16の「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くため」のみことばに立とうとの精神がこめられていた。その活動の基準は、(1)福音的聖書信仰、(2)超教派的立場、(3)伝道のビジョン、(4)神のみこころに従順であること、が謳われた。
 マクビーティの通訳者だった湖浜馨は、翌年創刊された月刊誌の編集長になり、また優れた翻訳者としても才能を発揮し、スポルジョン、マイアー、マーレーなどの著作の翻訳を次々手掛けていった。彼が訳したオズワルド・スミスの『唯一つの道』は最初の年の12月に出版された。B6判54頁の小さな本だったが、これがいのちのことば社の発行した最初の書籍であった。その後、世田谷区北沢に6坪ほどの仮店舗が与えられ、販売が開始された。同じ頃、「福音車」による移動販売も始めた。
 1951年11月、社屋を杉並区永福町に移転。中古の建物だったため、壁板も床板も波打ち、破損した所には板が打ちつけられるという代物だった。チャペルに使っていた2階(実は屋根裏部屋)は礼拝のたびに抜け落ちるのではないかと心配された。この頃より、印刷機の導入、月刊「生命の糧」(後の「百万人の福音」)の創刊、トラクトの制作・配布を行うEHC(全国家庭文書伝道協会)の発足など、働きは広がり、それに伴って職員も増えていった。2人から始まって2年たった時には、フルタイムの職員5人、パート・スタッフが25人になっていた。ある者は記者、編集者として、ある者は販売員、会計係として。
 しかし、リーダーのマクビーティ以下、出版の分野では素人の集まりであった。レイアウトや印刷の知識もなく、印刷機をどう動かすのかさえわからない。ただ救霊と文書伝道への情熱が、一人ひとりを困難や失敗から立ち上がらせ、経験が積み重ねられ、後々に生かされていった。そうしている間にも、働きの拡大に伴って人が加えられていった。1965年、永福町から信濃町の新社屋に移転した時にはフルタイムの職員だけで約70人、1970年には100人に、さらに1990年には200人近くに膨らんだ。