書籍編集の現場から 「自分ごと」として捉えてもらうには?
『もしも人生に戦争が起こったら―ヒロシマを知るある夫婦の願い』出版のきっかけは、1枚の写真だった。1945年8月6日後の広島。原子爆弾の投下目標地点だったT字型の相生橋周辺を上空から写したものだ。2017年当時、私は元米従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏関連の書籍(『神様のファインダー』坂井貴美子著)を編集中で、写真はオダネル氏による飛行機からの空撮だった。一面の焼け野原の中、相生橋の袂にぽつんと残されたカギ括弧型の建物。それはコンクリート造の「本川国民学校」で、爆心地から約400メートルという至近にあった。生存者は教職員と児童がたったの1名ずつ。その児童が居森(旧姓・筒井)清子さんという方であり、原爆の語り部として活動した後、2016年4月に亡くなっていたことがわかった。そして、そのご葬儀が横浜にあるキリスト教会で営まれたことも。
本川国民学校の被爆生存者が、クリスチャンになっていたかもしれない―。該当の教会や各方面に問い合わせ、清子さんの夫・公照さんにお目にかかると、公照さんは喜んで清子さんのことを話してくださった。清子さんの被爆体験。ご家族を奪われ、たった一人で生きてきたこと。お二人の出会い。楽しかった結婚生活。忘れていた頃に発現した原爆の後遺症。清子さんが感じた語り部としての「使命」。それを全面的に支え、二人三脚で取り組んだ講演活動。最後の3年間の看護と二人で続けた聖書通読。話しながら、公照さんは時折声を詰まらせた。「思い出すとどうもね、つらいね」。お会いした当時は清子さんを亡くしてまだ1年余り。事あるごとに清子さんを思い出してたまらなくなるという。
大きな喪失感を抱えた公照さんを支えていたのは、清子さんの活動を引き継いで各地で行う講演活動だった。清子さんは常々「私が亡くなったら、平和の大切さ、戦争の恐ろしさを代わりに伝えてね」と話していたといい、公照さんは「被爆者の苦しみは、体験した人でなければ本当の意味で理解することはできない」としながらも、数十年にわたって後障害に苦しむ清子さんの姿を見、看護してきた自分にしかできないとして、清子さんの遺志を継いでいるのだった。
私はお話を伺うまで、居森清子さんという方を「戦争体験者」という視点でしか見ていなかった。しかしご夫妻の絆に触れ、清子さんを、人生を全うされた一人の方として見たとき、初めて戦争が一人の人生にもたらす影響の大きさに気づいた気がした。「ご夫妻のお話を、ぜひ書籍として残させていただきたい」。私の打診に、公照さんは「特に今の若い方に知ってもらいたい」と応じてくださった。しかし、戦後70年以上が経過した現在の若者に「戦争体験」というある種非現実的な出来事をどうすれば「自分ごと」として捉えてもらえるか。公照さんとも話し合い、戦争体験だけに特化せず、お二人の人生そのものを社会の動きの中で捉えていこうと方向性を決めた。証言の合間に時勢のコラムを挟み、用語解説や地図、写真など視覚的イメージに訴える素材をできる限り取り入れた。そうしてできたのが、『もしも人生に戦争が起こったら』である。
編集を終えてみて、「自分ごと」として捉えてもらえるような工夫にはまだまだ改善の余地があったと思う。「伝える」ことの難しさ、「伝える」とはどういうことかを、非常に考えさせられた経験だった。
(編集部 藤野多恵)
本川国民学校の被爆生存者が、クリスチャンになっていたかもしれない―。該当の教会や各方面に問い合わせ、清子さんの夫・公照さんにお目にかかると、公照さんは喜んで清子さんのことを話してくださった。清子さんの被爆体験。ご家族を奪われ、たった一人で生きてきたこと。お二人の出会い。楽しかった結婚生活。忘れていた頃に発現した原爆の後遺症。清子さんが感じた語り部としての「使命」。それを全面的に支え、二人三脚で取り組んだ講演活動。最後の3年間の看護と二人で続けた聖書通読。話しながら、公照さんは時折声を詰まらせた。「思い出すとどうもね、つらいね」。お会いした当時は清子さんを亡くしてまだ1年余り。事あるごとに清子さんを思い出してたまらなくなるという。
大きな喪失感を抱えた公照さんを支えていたのは、清子さんの活動を引き継いで各地で行う講演活動だった。清子さんは常々「私が亡くなったら、平和の大切さ、戦争の恐ろしさを代わりに伝えてね」と話していたといい、公照さんは「被爆者の苦しみは、体験した人でなければ本当の意味で理解することはできない」としながらも、数十年にわたって後障害に苦しむ清子さんの姿を見、看護してきた自分にしかできないとして、清子さんの遺志を継いでいるのだった。
私はお話を伺うまで、居森清子さんという方を「戦争体験者」という視点でしか見ていなかった。しかしご夫妻の絆に触れ、清子さんを、人生を全うされた一人の方として見たとき、初めて戦争が一人の人生にもたらす影響の大きさに気づいた気がした。「ご夫妻のお話を、ぜひ書籍として残させていただきたい」。私の打診に、公照さんは「特に今の若い方に知ってもらいたい」と応じてくださった。しかし、戦後70年以上が経過した現在の若者に「戦争体験」というある種非現実的な出来事をどうすれば「自分ごと」として捉えてもらえるか。公照さんとも話し合い、戦争体験だけに特化せず、お二人の人生そのものを社会の動きの中で捉えていこうと方向性を決めた。証言の合間に時勢のコラムを挟み、用語解説や地図、写真など視覚的イメージに訴える素材をできる限り取り入れた。そうしてできたのが、『もしも人生に戦争が起こったら』である。
編集を終えてみて、「自分ごと」として捉えてもらえるような工夫にはまだまだ改善の余地があったと思う。「伝える」ことの難しさ、「伝える」とはどういうことかを、非常に考えさせられた経験だった。
(編集部 藤野多恵)