ドアが閉ざされているとき アクセスが難しい国から
世界中のすべての人々に福音を宣べ伝えるという私たちの決心は、閉ざされた「危険な場所」に行くことも含まれています。EHCは76年前、地球上のすべての人々にキリストの希望と愛を伝えたいという情熱から始まったミニストリーです。それを実現するため、家庭伝道という現実的な計画を立案しました。しかし、長い年月を経て伝道活動が155か国に拡大するにつれ、それだけではすべての人に伝道することはできないという事実を目の当たりにしました。宣教には数え切れないほどの障壁があり、家庭伝道が適さない国もあります。
ですから、私たちはいつも次のように問いかけています。ドアが閉じられていたらどうするのか? 閉ざされたドアの向こう側にいる人々に手を差し伸べる方法を見つけなければなりません。しかし、それはとても複雑です。
ドアが閉まっている理由は様々あり、その多くは正当なものだからです。文字どおりの玄関のドアだけではなく、心、そして霊のドアも閉ざされています。ドアは安全のため、もしくは恐怖のために閉ざされるかもしれません。心が傷つけられたり、利用されたりしたために閉ざされているのかもしれないのです。
伝道は、隣人の境界線に踏み込むことではありません。イエス様は隣人のためらいを理解しておられ、境界線を尊重し、生活や過去も考慮した上で、彼らを招いておられます。すべての人間関係がそうであるように、このプロセスには時間と犠牲が伴います。しかし、これこそが隣人を愛するということなのです。
EHCは、あらゆる場所、あらゆる世代、あらゆる人にキリストを伝えるという情熱と実践的な計画を持つグローバルなミニストリーであり、隣人を愛するために存在するクリスチャンのネットワークです。ドアが閉まっていれば、私たちは注意を払います。そして耳を傾け、ドアを開けるために何が必要かを見つけるため、時間をかけて努力するのです。
だからこそ、皆さんはこのミニストリーの重要な働き人なのです。あなたは自分の世界の隣人を愛しているだけでなく、ドアが閉まっているときでさえ、地球上のクリスチャンである兄弟姉妹が隣人を愛するために特別な努力をすることを助けています。あなたのサポートと祈りは、心や霊、そして家庭の扉が開かれるために不可欠なものなのです。私たちのミニストリーに加わってくださりありがとうございます。
EHC国際総裁 タナ―・ピーク
予期せぬ愛
もしかしたら、暴動を当局の注意を自分からそらす贈り物だと考えるのは、頭がおかしいのかもしれません。福音のためにすべてを賭けるために「特別な」クリスチャンになる必要はありません。
「私たちは誰もいない通りでトラクトを配りました。しかし、いつ群衆が現れるかはわかりません。人々はゴミ箱を燃やしていました。もし警察が来たら、私たちは立ち去らなければなりません。トラクトが見つかるのを避けるため、私たちは時々それを路上に隠しました」
迫害の話はよく聞くかもしれませんが、クリスチャンが直面する試練は必ずしも私たちが予想するようなものだけではありません。分断が起こっている土地では、文化的、宗教的な境界線に沿ってお互いが対立していることがあります。残念ながら恐怖や絶望、怒りは普遍的なものであることが多いのです。
私たちがイスラム教のパンフレットを配っていると勘違いした若者は、私たちに、「多くの若者がイスラム教に反対しているのだ」と話し出しました。そして怒った若者は群衆を集め、私たちの仲間の一人を平手打ちしたのです。「彼らは私たちをリンチしようとしていました。本当に怖い思いをしました。しかし、仲間の一人が聖霊に満たされ、私たちの神様は愛の神だと言ったのです。そうすると、人々は興味を持って耳を傾け始めました」
そして、平手打ちをされた仲間は、人々と国のために祈るように依頼されたのです。
最も敵対的と思われるような場所でも福音が速やかに伝わるのは、人々が希望を切望しているからです。その意味で、私たちが「閉ざされている」と思っている場所は、実は大きく開かれていると言えるでしょう。
「これほど多くの人々が祈りのために外に集まっているのを見たのは初めてでした。そこにいた何人かは、長年厳格な宗教的体制のもとで暮らしてきた人たちでしたが、私たちの仲間が殴られても、彼らのために祈ったので、彼らは私たちを受け入れてくれたのです」とEHCのチームメンバーは語ってくれました。
私たちは、危険な地域にいるクリスチャンは力強く印象的であると考えるかもしれません。しかし、このような状況において、多くの場合、彼らは恐怖のなかでキリストの愛を静かに守り続けているのです。
このような物語の中で力強く働かれているのは神様であり、人ではありません。「私たちは19歳の青年マイケルに出会いました。彼は、イスラム教徒はキリスト教徒より優れていると言っていました。」
マイケルは話しながら怒っていました。彼はイエスが神であるという証拠を求めていたのですが、福音を耳にしても、クリスチャンのことばなど何の意味も持たないと感じていたようです。
しかし数日後、災害がその地域を襲ったとき、EHCのメンバーは同じ青年に道で出会いました。そしてその青年は「私は間違っていました。悔い改め、キリストを信じます」と言ったのです。被災地を支援するクリスチャンたちの姿を見て、彼の考えは変えられたのでした。主がマイケルの心に働いてくださったのです。そして以前クリスチャンが語ったみことばの種が、この青年の心の中で芽を出したのでしょう。
福音の働きは神秘的なものです。この青年の人生を通しても、それは明らかとなりました。彼はその後、地元の教会を通して困っている人たちに薬を配るコーディネーターとなり、自らが見たいと願っていたキリストが神である証拠となったのです。