神の恵みを奏でる手
クラシック、讃美歌、オリジナル作品などのピアノ演奏を通して、神様の愛の語り手を務めております。
「私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも 主への賛美がある」(詩篇34:1)
私の音楽活動においての標語としている聖句です。ダビデがどんな時にも竪琴をもって主をほめたたえていたように、私もピアノという楽器をもって日々の恵み、溢れる感謝、愛を告白すること、それが私の主なる神様への賛美です。鍵盤から流れる一つ一つの音に、自分の信仰告白をこめて書いたオリジナル曲のCDを日本と韓国で出しており、今日まで多くの祈りの友に恵まれてきたことを、この場を借りて心からの感謝を申し上げます。
父親の影響で幼少の頃からピアノに興味を持ち始め、手ほどきを受け、音楽大学に進学しました。順風満帆な学生生活、プロの音楽家を目指してさあこれから! という3年生のある秋の日のことでした。交通事故で左手首を骨折し、その部位の完治は非常に難しいという診断を受けました。それまで積み上げてきたことが一瞬にして失われ、将来への夢も絶たれてしまいました。
ところが、その再起不能とされたこの大怪我から奇跡的復帰を体験したのです。完全に砕けていた部分が何事もなかったかのように、僅かなズレもなく繋がっていたのです。「この手はもはや自分のものではない、神の恵みを奏でる手として生涯お捧げします!」と約束の祈りをしました。それを機に音楽人生が変えられることになったのです。勉学においては大学卒業後、フランスの音楽院留学の道まで開かれ、遅れを取り戻す以上の充実した時期も備えられていました。すべては、天地を創造されたお方がこの小さな男の、小さな骨の痛みまでもご存知で、この私の名前を呼び、捜し続けておられたという愛のゆえに今日があると確信しています。
賛美は礼拝そのものであり、賛美に触れる人に回復をもたらします。「回復」の意味を広辞苑で調べてみると「一度失ったものを取り戻すこと」とありました。私たち信じる者にとっての回復の意味とは「失われた人を捜して救うために来られた」イエス様の計画そのものではないでしょうか。
私たちが賛美する時、いのちを投げ出してまでも私たちを愛し、今日も生きておられるお方がご自身を現されます。賛美によって隔ての壁は崩れ落ち、分断されていた神と人との関係の回復により、憎しみから愛へ、そして死からいのちへと変えられていくのです。最近では、まだ福音が届いていない人たちに寄り添う場作りも、賛美する者の役割ではないかと思わされています。社会福祉的要素のある働きかもしれません。そのためには、クリスチャン自身の霊的回復を要します。健全な宣教活動とフォローアップ体制を整える土台作りにも取り組みたいと知恵を求めているところです。主は何を喜び、何を求めておられるのか、今一度立ち止まって祈るのです。
「神の恵みを奏でる手」をもって、必要とされている所へ遣わされたい、用いていただきたいと願うばかりです。これからも主のなさる業に期待し、救われるべき魂に直球で届く賛美を奏で続けていきます。