殉教の地、天草に導かれて
私は1954年、鹿児島県の甑島に生まれました。人口5千人ほどの小さな島で、父が海運業と漁業(定置網)をしていたこともあり、私も二人の兄と共に家業を手伝うことになりました。
ちょうどその頃、長兄を事故で失い、その後も毎年のように死傷者が出る大きな事故に見舞われ、私は度重なる喪失で心身共に疲れ果て、今思えば鬱状態で、死に対する恐怖は私を悩ます大きな問題となっていました。そのような苦しみの中で、私は聖書と初めて出会ったのです。
1986年8月、私はイエス様を自分の救い主と受け入れ受浸の恵みにあずかりました。間もなくして主からの召命を感じました。私を後継者にと決めていた父はいろいろな人を使って思いとどまらせようとしますが、私の意思が固いのを知った父は万策尽き、私を勘当。父の期待に添えなかったことに心を引き裂かれる思いで実家を後にし、1988年に開校した九州バプテスト神学校へと入学しました。そして1991年、卒業と同時にバプテスト川内キリスト教会の副牧師として就任しました。
2年後の1993年3月1日、不治の病で死が迫ってていた父を見舞うために島の診療所へと向かいました。病室の前で待っていた母が、父は今日一言しか話さなかったというので聞いてみると「俺はどこに行けば良いのか?」と話したと言うのです。病室に入った私の顔を見るなり父はしゃべり始めました。話の内容はよく聞き取れなかったのですが、最後のことばははっきりと聞き取ることができました。それは「これも俺が悪かったのか」です。また別のことを話し始めるのですが、最後のことばは同じ。私は父が自分の人生を回顧させられていると感じ、父のことばを遮り、「お父さん。生まれて罪を犯さない人間は一人もいない。そして一度犯した罪は何をもってしても償えない。だからイエス様はお父さんの罪を赦すために来てくださった。お父さんもイエス様を信じたら永遠のいのちを頂ける…」。話を終え、父に「お父さんわかった?」と聞くと、「わかった。わかった。」これが父の最後のことばでした。仕事が趣味で頑固者の父に対するイエス様の愛と導きにただただ感謝しかありません。
その当時、私は高齢であった主任牧師の後任として母教会の牧師として就任することが神のみこころだと思っていました。しかし、主はすでに閉鎖されていた天草伝道所へと導いておられました。閉鎖の原因は女性伝道師のカトリックへの転向、教会の分裂、建築途中での建築資金枯渇による費用未払い(約3,600万円)。その代償として建築業者は土地、建物の所有権移転を要求し、その法的手続きが3日後に迫っていると、天草で開催された教役者会の帰途で知ることになります。そして1995年3月、引っ越しの荷物をトラックに積み込み、家族を伴い迎えてくれる教会員もいない天草伝道所にひっそりと就任したことは懐かしい思い出です。イエス様はこのような状況の中でも一つひとつの難問を解決してくださり、負債は3年ほど前に主の恵みによって完済しました。天草・島原は多くの殉教者の血が流された殉教の地、この天草で学んだことは、殉教の信仰です。名も無き偉大な殉教者の信仰に少しでも近づけたらと願っています。