リバイバルへの第一歩
「福音を伝える私の一歩」を昨年、踏み出しました。私と妻が育った母教会は千葉県市川市にある都会の教会です。この教会は、働き盛りの信徒家族がたくさんいて、教会学校の子どもたちは毎週約50名が出席し、教師は約20名、礼拝出席者は1日2回の礼拝で140名程度。また世界規模の宣教団体の日本の本部が隣にあり、教会教職2名体制の他に、協力宣教師夫妻が何組かいて、短期的にも多くの宣教師が出入りしている教会でした。いつでも相談できる牧師や、いつも気にかけて祈ってくれる宣教師夫妻、さらに家に招いてくださる先輩クリスチャン夫婦がいる。結婚前に青年会に所属していた私と妻は、本当に多くの方々に祈られ、具体的なケアをしてもらいました。
そんな教会生活を送る中、他の教会の現状を聞き、特に首都圏以外の教会、地方教会の祈りの課題などを知る機会が増えました。無牧、兼牧なんてとっくの昔から始まっている。「教会が高齢化」なんてもはや死語に近い。高齢の役員が毎週説教をして、教職による聖餐式は年に数回。集会は日曜礼拝とかろうじて祈祷会。そのような地方教会の現状を知り、自分たちは本当に恵まれている環境で教会生活、信仰生活を送っていたのだ、と初めて気がついたとき、二つの思いが湧いてきました。多くの祝福に対する感謝と、しかし一方でやるせない思い、どこか腑に落ちない思いです。本来、イエス・キリストの恵み、福音はどの教会、どの地域でも同じはず。しかし、あくまで人間的な目からではあるが、どう見てもアンバランス。なんだか日本の教会が首都圏を中心とする恵まれた都会の教会群と、目に見える形としては決してそうとは言いづらい地方の教会群に二分されているかのような現状。日本社会全体の人の流れや構造から考えればある意味当然かもしれない。しかし神の国も果たしてそうなのか。恵みや祝福の現れ方にこんなに差があって良いのか。都会の教会は、地方教会出身の多くの信徒たちによって支えられているという一面がある。地方から都会という流れがあるとすると、またその逆の流れがあって、初めて日本全体に「恵みの循環」というものは起こるのではないか。そのために、誰かが逆流し地方教会へ遣わされる必要がある。神様っておもしろいですよね。そんなことを考えて祈っているうちに、私は神様から捉えられていました。山形県、東北地方とまったく無縁である私と妻。親戚や友人が一人もいない。酒田市? 聞いたこともない。でも神様からの辞令なので「はい。わかりました。」日々、遣わされた酒田で主に仕えるとともに、地方と都会の教会の橋渡しとして、日本全体に恵みを循環させるために奮闘しています。
「福音を伝える私の一歩」、それは都会の教会から地方の教会へ。温暖な南関東から雪国・東北へ。太平洋側から日本海側へ。JECAの教会から日本ルーテル同胞教団の教会へ。私たちの神様は地域や国、教団教派に縛られるお方ではありません。だから安心して信仰の一歩を踏み出しました。この一歩に伴う試練や葛藤はもちろんあります。しかし、派遣した方がちゃんと責任を持って助けてくださるから大丈夫です。ぜひご一緒に、地方から都会へ、そして都会から地方へと、日本全体に恵みの循環を行き巡らせましょう。それはもしかしたら、日本のリバイバルへの第一歩!? 主の御名をほめたたえます。