欠けだらけの空っぽの心に神様は生きる希望をくれた
私は左手の指が無いという障害をもって生まれ、長い間劣等感を抱えて生きてきました。自分は不完全な人間で、人とは違うと思って卑屈になり、孤独の暗闇の中で生きてきました。自分で努力しても左手はどうにもなりませんでした。学校でみんなが楽しそうに休み時間に遊んでいても、私は一人で鉄棒の練習を泣きながらしていました。あいつは左手の指がないから鉄棒はできないと思われるのが我慢できなかったからです。でも、私が努力すればするほど、自分は足りない存在なんだと思ってしまったのです。そうして人と比べて生きることに疲れ果ててしまい、18歳の時にアメリカに家出しました。新しい場所でなら生まれ変われると思ったからです。でも、実際は余計に孤独を感じるだけでした。ことばもわからず、文化も違うところで苦しんでいました。自分ではどうすることもできない泥沼に入ってしまったような感じでした。そんな時に神様は一人の牧師を通して私に生きる希望を与えてくれたのです。
先生は、卑屈になり、自信もなく、時には死にたいという思いに支配されるような私をいつもただ黙って受け入れてくれて、話を聞いてくれました。ある時、「死にたい」という気持ちを伝えると、「もう死にたいのはわかったから何度も言わなくていい」と言われました。そして、いろんな苦しい体験をしてここまで来たおまえだからこそ、苦しい人の思いがわかるはずだ。将来、必ず、おまえと同じような苦しい体験をしてきた人が目の前に現れる。その人を救ってあげられるのは同じ体験をしたお前しかいないのだから、将来出会うであろう、その人のために生きてみなさいと言われました。その時の私は自分を諦めていました。生きる希望がなかったわけです。でも、先生から言われたそのことばが、私の欠けだらけの空っぽの心の中に希望の光として入ってきたのです。人のために生きるという意味なんてわかりません。でも、多くの人が私を見下していた時に、先生が私の話を聞き、真剣に私のためにイエス様の愛を教えてくれたのです。先生の語ってくれたことばに、神様の真実な愛を感じました。神様が私を愛していることを知った時に、私は初めて自分の生きる意味を見いだせたのです。ここから私の新しい人生が始まりました。
渇ききった私の心の奥底に、生ける水の川が湧き出てきて(ヨハネ7:38)、苦悩があるところに一筋の光が射し、希望が生まれました。それは、生き方ではなく、私の存在意義を示し、そして、そこから優しくイエス様が私を導いてくれる愛なのです。また、聖書は 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と教えます。疲れ果てていた私は初めてありのままでいられる居場所を見つけたのです。聖書は、どんな人でも神様は必要としているということを教えてくれます。私は自分を諦めていました。でも、私を諦めないイエス様が私たちを呼んでいてくださるのです。私は今、苦しい体験をしてきた人たちのよりどころとなる教会を建て上げました。もし、苦しいことがあった時には、私のところに限らず、ぜひ教会を訪ねてみてください。