イエスを生きることで伝わる福音
僕は、ルオーという画家の描いた「キリスト」が好きです。それを観ると、キリストに会ったように感じます。どういうわけだかわかりません。ことばで上手く説明することはできないのですが。けれど、僕はその「キリスト」の前に居ると、魂に安らぎを感じ、キリストの憐れみが深く迫ってきて、キリストの懐に抱かれている感覚を味わうことができるのです。そう、僕にとって、ルオーの描いたキリストを観ることは、キリスト体験なのです。
僕にとって福音は、イエス・キリストそのもの。今も生きておられるお方。僕は、イエスと出会い、イエスと共に生きるようになりました。イエスが僕の内に、僕がイエスの内に生きている…。イエスと出会い、彼を知り、憧れ、真似て生きる…ということが、イエスに弟子入りして40年近くたって少しわかり始めてきたように思います。
18歳で信仰を持ち、27歳で牧師になり、教会に遣わされました。しかし、40代になった頃、僕は道に迷ってしまいました。「自分は何者か、なぜ生きるのか…」。自分の存在の核になるもの、中心軸を見失い、魂の深い所で渇いていることに気づかされました。長くなるので、詳しいことは省略しますが、僕はそこでイエスと再会したのです。今も生きておられるイエス、よみがえられたイエスが、僕の内に生きておられることを明らかにしてくださったのです。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。イエスと再会した時から、僕は大胆にもこう思って生きるようになりました。「僕の中にイエスはおられる。イエスを生きる人になりたい…」。そして、その頃に読んだ本の一節が、僕の心をとらえて離しませんでした。「私がイエスに最も魅せられている部分は、イエスが私にもそうなるように招いている姿です」(『行きづまったとき〜神との関係をそだてる』パトリック・オサリバン著、女子パウロ会)
「信仰は、伝えるものではなく、伝わるもの…」。大切な恩師が遺したことばです。彼に会うと、いつもイエスとお会いしたような気持ちになりました。彼と共に過ごす時間は、イエスと共に過ごす時間となっていました。ことばではなく、人格を通してイエスが伝わってきました。彼は、まさに「イエスを生きる人」でした。彼の内にイエスは生きておられました。「イエスを生きる人」は、架空の人ではありません。僕は、何人もそのような人に出会ってきました。その人たちを通して、イエスと出会ってきました。だから、僕も「イエスを生きる人」になりたい…。
今、僕はいろいろなことをしています。牧師、画家、主夫、掃除夫、運転手…。肩書き、職種、目に見えるかたちは違うけれど、僕の中では一つのこと。一つの心で生きています。「イエスを生きる」僕は心にこんな想いを描きながら暮らしています。「イエスが講壇で語り、絵筆を走らせ、家事をし、園庭を掃き、子どもたちの送迎をしている…」。そして今日も信じてこう祈ります。「主よ。今日も僕の内に生きてください。今日、出会うひとりひとりとお会いくださいますように」
早矢仕宗伯「イエスの風」のウェブサイト(https://www.windofjesus.com/about)で、作品を見ることができる。