すでに私は十字架で死んで
私がイエス様を信じる決心をしたのは、1980年10月に大阪で行われたビリー・グラハム国際大会でした。当時中学生だった私は、ただ誘われるまま、みんなで大阪に出かけるくらいの気分で参加したのです。メッセージ後の招きで心に迫るものを感じ、グラウンドに下りていきました。今にして思えば、単純で感情的ともいえる信仰の決断でした。
その後、教会から離れることなくティーンエイジャーの時期を過ごし、20歳で聖書学校に入りました。高校1年の夏に献身の召しを頂いていましたが、まだまだ訳のわかっていない(いまだに?)者で、ただ勢いだけで進んでいった感がありました。恩師有馬貫治牧師の愛と忍耐には、下げた頭を上げることができません。
聖書学校で学び、キリスト教書店での奉仕や、放送伝道にも携わる機会が与えられましたが、勢いと勘違いで「肉」のニオイがプンプンする働きだったのではないかと思います。
そんな私に大きな転機となった出来事がありました。ある日曜日、宣教師が語る礼拝のメッセージを会衆席に座って聞いていた時、突然、心に一つのビジョンが見えました。
別に幻を見たとかそういう不思議な経験をしたわけではありません。ただ心にはっきりと示されたことがあったのです。それは、自分がイエス様と共に十字架につけられているという「事実」でした。 それまで、十字架においてイエス様が私の罪のために死んでくださったと信じてはいたものの、その十字架に、私がイエス様と共につけられたことをつかめていなかったのです。
それが心にストンと落ちた時、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という神のいのちの躍動を感じることができました。その瞬間、私の中で何かが軽くなったのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」 (ガラテヤ2:19~20)
それまでの私は、「神様のために…」と頑張れば頑張るほど空回りし、疲れ果ててしまうような者でした。当然、周りの人たちも疲れさせていたことでしょう。
イエス様と共に十字架につけられた自分が心に示された時、はっきりわかりました。「神様のために頑張る私」は十字架につけられてすでに死んでいるということです。「あ、俺死んでたんや」ということばが口から出た時、十字架だけでなく、復活も今の自分にリアルなものになりました。ここが、福音を伝える私の一歩目なのです。
「私が神様のために何かする」から「神様が私を通して何かをなさる」へと変えられたのです。「神様が私を通して何をなさるのだろう」と思うと、もはや気負いはなくなって、主への期待があふれてきます。主は真実なお方です。