祈れない私たちに――キリストの祈りから学ぶ 祈れるようになる秘訣
池田 博
日本福音キリスト教会連合 本郷台キリスト教会 牧師
教会は祈る場所、クリスチャンは祈る人、そして祈る人とはクリスチャンの代名詞になっているとも言えます。けれども「私は祈れません、祈りを教えてください。どうしたら祈れるようになるでしょうか」という質問をクリスチャンから受けます。これはいつも繰り返される質問でもあります。そのせいか祈りに関する本がどれほど多く出版されていることでしょうか。それはクリスチャンにとって、祈りがいかに課題であるのかということと同時に、どんなに大切に意識されているかを裏づけることとして、喜ばしい気もします。
前述のように、クリスチャンであれば誰でも祈れるはずですし、祈ったことのないクリスチャンはいません。それなのにしばしば祈れないと訴えるのです。しかしこれは、祈れる人と祈れない人の二つのタイプに分けられる、ということではなく、私たちクリスチャンの両面の姿ではないでしょうか。
祈りを繰り返し最もよく教えられたのは、十二弟子でした。しかし彼らは、ある時イエス様に「ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と願い出ています。(ルカ11・1)毎日、ともに祈りの生活をしていた弟子たちです。そのときイエス様は彼らに対して、「あなたがたはまだ祈れないのか」と叱ったりしてはいません。やさしく受け入れ、初めてのように、こう祈りなさいと教えられたのです。
そのイエス様が、「山上の教え」の中で、別の側面から大切なことを教えておられます。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。」(マタイ6・6)このみことばから、私たちはどうしたら祈れるようになるのか、その秘訣を考えたいと思います。
まずは「特別な時と場所を定めなさい」ということです。祈りはいつでもどこでもできるのも事実です。イエス様もそれを教えています。(ルカ18・1)けれどもここでおっしゃっているのは、あなたと神様との交わりである祈りを最も大切なこととして生活の中で位置づけなさいということです。
あなたは自分の生活の中で、神様との交わりをどんな位置においているでしょうか。仕事が忙しい、子育てが大変、しなければならないことが多くて……。それでつい後まわしになってしまうことがないでしょうか。あなたがただ無意識に後まわしにする分、あなたの祈りはおざなりに、形式的になり、祈りの力を失っていきます。ですからどうしても「自分の奥まった部屋に入って」定まった主との交わりを大事にしたいのです。それが祈りのすばらしい恵みを得る秘訣です。
第二に、「あなたの父に祈りなさい」(マタイ6・6)とイエス様は言われました。「神」とは言わず、「父」と言われました。それはイエス様が祈りの相手を、「神」というより「父」として深く意識しておられることの表れです。そしてここから神と私たちとの関係も同様であると示してくださっています。「父」と言うことによって、ご自身と神さまとの関係が、どれだけ親しい血の通うつながりであるかがわかります。
さらにマルコ一四章三六節には、「アバ」という言葉が「父」という意味で使われています。これは幼児語です。幼児にとって父は、どんなことでも言える緊密なつながりがあります。イエス様と神もそうなのだということです。何と親しく、また深い関係でしょう。 あなたは神様とはどのような関係でしょうか。イエス様ほどの近さがあるでしょうか。私たちもぜひ、イエス様のように神に近づきたいものです。
第三のこと、それは祈りとともにみことばをいただくことです。祈りがマンネリ化、形式化していく原因の一つは、みことばによる養いを受けないことがあります。みことばなしの祈りになっていくとき、いつしか祈りは願いごと、さらにはおねだりの祈りになっていきます。祈りの半分は主に聞くことにあります。祈りとともにみことばから教えられていくとき、私たちはより深く主と交わることができます。このために私がいつも勧めていることは、最低十五分をそのために割くということです。十五分はどうしても必要です。そこで聖書を最低二章読み、主に祈る、このことを毎日継続してほしいのです。
また大切なのは朝一番にするということです。それが大事な秘訣です。それによってあなたは主に対して、今日一日を全き信頼をもって主に委託するのです。そのとき主は必ず信頼に応えてくださいます。主のみ手の守りと祈りが聞かれる経験が身につき、主の祝福は確実にあなたのものになります。祈りはあなたを変えるのです。